なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

トランプ氏が勝ったことについての嫌な予感について

 アメリカの大統領選でトランプ氏が勝利した。このことについて、以前から『トランプ氏が勝ったら嫌だな』と思っていた。そう、嫌だと思っていたのだ。アメリカのことは私には何の関係もないのに。いや、本当は本気で何の関係もないとは思っていない。主に経済の面でアメリカの様子は私に影響している。しかし、アメリカがどう動いたら私の生活がどうなるかなんて何もわからない。

 だから、今回の大統領選も『嫌だな』と思う割には具体的にどう嫌なのか、全くわかっていない。空気のようにふわっとした感想しかもっていない。しかし、この空気こそが恐ろしいものなのだ。
 空気というのは、人を動かす力を持っている。いや、言語化されない力の中で、人を動かすものを空気と呼んでいる。
 今回、トランプ氏が勝ったことについて喜びを表明しているメディアはほとんどないし、そういったSNSの投稿もシェアされてこない。このことが、言語化されない力、『空気』の働きを表しているのではないだろうか?
 そしてもうひとつ、トランプ氏勝利の喜びの声が聞こえないことについて、本当はトランプ氏が勝ったらいいなという空気があったのではなく、ヒラリー氏は嫌だなという空気があったのではないか?そう考えると、トランプ氏の勝利の快哉が聞こえないことも納得がいく。
 こうした空気があったとしたら、『だれを支持するのか』というアンケートでは決して可視化されるものではないだろう。それが、メディアがヒラリー氏勝利を読み間違えた原因ではないかと思う。
 さて、話が最初に戻ると、私がトランプ氏は嫌だなと思っていた空気は、私の身の回りの人たちから感じ取ったものだ。思いつく限り、トランプ氏支持派は一人もいない。
 このことを私は恐れる。私の元に、トランプ氏を支持する人の空気は伝わってこないことを。それは断絶のなせる業だ。今回はたまたま国境がその断絶だったのかもしれない。けれども、同じ国の中でもその断絶はあり得るのだ。
 国は一つにまとまっているほうがいい、と正直思わないでもないが、それが不可能だということも分かっている。だからこそ、いろいろな人がいるこの世界の中で自分には見えない人がいる、ということが恐怖である。
 もしかしたら、民主主義の一番優れている点は、票によって『見えない人』が見えるようになることかもしれない。それ以外に、自分には見えないものをどうやって見たらいいのかがわからないのだ。
 そして、自分には見えなかったものが見えた時、それを受け入れる覚悟を常に持たねばなるまい。だから、今はただ、アメリカの新大統領を祝福しようと思う。

『見てもらえないこと』が数字化される世界

 ブログ、小説、絵、なんでもいいです。作品を作る人にとって、それを発表して何かを得るというのは非常に大切ではないでしょうか?
 ネットのおかげで作品を発表する機会というものを得るコストは非常に下がりました。そして同時にネットには『数字』がついて回ります。つまり、作品をどれだけ見てもらえたかがすぐに分かるのです。
 このことは裏を返せば、ネットのおかげで作品を『見てもらえないこと』が数字化されてしまっているということです。
 これは作品を作る側の気持ちとして、非常に厳しい。
 けれども作った作品がたくさんシェアされる人というのは本当に一握りなわけです。ほとんどの人は、自分の作品を『見てもらえないこと』を表す数字と直面している。
 しかし、それでもネットにはたくさんの作品が発表されます。みんな『見てもらえないこと』にめげてない。いえ、実際にはめげてるかもしれないけど、それでも作品を作るのをやめない。
 これって、とても素敵なことだと思うのです。
 『見てもらえないこと』が数字化される世界だからこそ、見てもらえなくてもやめないこともまた見えてきます。
 見てもらえなくてもやめないこと自体を心の支えにするというのは、ある意味とても弱いことかもしれません。人に見てもらえて初めて作品は作品たり得る、そこまで至らないのは作品ではないというご意見もあるでしょう。
 しかしそれでも、ものを作るということ自体が楽しいですし、反応を恐れず作ったものを発表するという気持ちには敬意を払いたいと思うのです。

アラサー後半戦を生きる女オタクが読んできた小説たち

 

ライトノベル個人史」みたいなものを書きたくなったりすることもあるのだけど(そして同時に、そういうものを聞きたいし読みたいぞ、と頻繁に思ったりもしているのだけど、あまり「順を追うように」書いてくれてる文章って、巡り逢えてなくて、常に飢えている、ところがあったりもする……)、

最初に買ったライトノベルを思い出してみるだけ - 世界は称賛に値する

 

 を読んで、私なりにライトノベルというか小説遍歴をたどってみたいなと。

小学校中学年

 講談社ティーンズハート文庫を読んでいた。特に小林深雪を読んでいた記憶が。さすがに小学生のお小遣いでは何冊も買えないので、友達と本の貸しあいっこをしていた。ここへは多分少女漫画雑誌の「なかよし」の広告からたどり着いたように思う。思えば、この頃は少女だった。

小学校高学年

 私の人生が思いっきりオタクな方向に傾いたのは、「スレイヤーズ」に出会ったからである。テレビアニメがきっかけで一番最初に手に取ったスレイヤーズはなんと8巻。そもそもページを開いたら文字ばかりなのに驚いた。マンガだと思い込んで本を買ったのだ。あんなにマンガな話なのに小説なの!?とその時点ですでにびっくり。さらに当時放送されていたアニメは第1期。8巻までは話が進んでおらず、当然登場人物たちも知らないキャラばかりで、その上8巻は第一部の完結巻であってよくわからんまま話が終わるという読書体験をした。

 それでもねぇ、面白かったのですよ。

 で、改めて1巻から本を揃え始めて、前述のティーンズハートを貸しあいっこしていた友達にも面白いよー、と言って2巻を貸したりした。で、面白いから1巻から読みたいとリクエストされたのだけれど、1巻は恥ずかしくて貸せなかった。ええ、あの日の話題が出るものですから…。

 なんだかつらつら書いたけど、スレイヤーズが私の原体験的なものになったのは間違いないです。はい。

中学校・高校

 この頃にはなかよしやティーンズハート文庫は卒業し、思いっきり少年向けのライトノベルに興味が偏っていった。個人的には、この頃(97年くらい)にはもうライトノベルという言葉はあったように思う。なので、これ以降はライトノベルとそれ以外という枠で語りたい。

ライトノベル

 スレイヤーズの他に大きな出会いをしたのが、魔術士オーフェンシリーズである。最初に読んだのはドラゴンマガジンに載ってた、「お前は一体なんなんだ!?」だったと思う。これは無謀編というギャグメインの短編の中の一編なのだが、あまりにもぶっ飛びまくったキースというキャラに翻弄されたことを覚えている。

 それからシリアスな話の本編を買って(今度はちゃんと1巻から)、どっぷりオーフェン沼にハマることになった。1巻はなんだかミステリみたいだな、などと思いながら読んでいた。

 あと富士見書房の作品では、フルメタル・パニックシリーズ、風の大陸などを読んでいた。それと、大学時代にかぶることになるが、「エンジェル・ハウリング」が始まったのが確か2000年ぴったりで1巻を買った時はまだ高校生だったはず。このエンジェル・ハウリングは私のライトノベル遍歴をある意味終わらせた、個人的エポックメイキングである。

 富士見書房以外だと、スニーカー文庫ラグナロクシリーズ、電撃文庫ブギーポップシリーズ、キノの旅シリーズを読んでいた。あと「イリヤの空、UFOの夏」も外せない。

ライトノベル以外

 この頃は、1週間に5冊くらい本を読んでいた。なぜそんなことが分かるかというと、毎週末に公民館の図書室から一度に借りられる限界数の5冊を借りていたからだ。当然司書さんには顔を覚えられていた。

 これだけ読んでいればさぞ豊かな読書体験をしただろうと思うのだが、実は何をどれだけ読んだかほとんど覚えていない。

 ただ、ミステリメインで読んでいたことは覚えている。森博嗣のS&Mシリーズ、京極夏彦京極堂シリーズが特に好きだった。シリーズ外のものだと、宮部みゆきの「ステップファザー・ステップ」や蘇部健一の「六枚のとんかつ」などが好きだった。

 また、高校の図書室がなかなかに充実していて、ここでゲド戦記や果てしない物語など、海外の名作ファンタジーに出会うことになった。あとここの図書室はおかしくて、スノリのエッダが置いてあった。おかげさまでオーフェンシリーズの元ネタはバッチリさ!

 その他、夢枕獏の「神々の巓」や真保裕一の「ホワイトアウト」もここの図書室で読ませてもらった。

 また、宮城谷昌光の「太公望」もこの頃に読んだが、ものすごく面白かった。それからいくつか宮城谷昌光作品を読み、個人的ベストは「介子推」になった。

大学時代

 浪人と留年合わせて大学時代が7年ほどあるので、時代的に幅広い作品がここに入ると思われる。ただ、ものすごく本を読んでいた中学高校と比べて、読む作品数はめっきりと減った。

ライトノベル

 実はこの頃にはシリーズものの購読はほぼ止めており、ブギーポップキノの旅など今も続いているシリーズであってもこの辺りから読んでいない。ライトノベルと呼ばれるジャンルで読むのは、ほぼ秋田禎信作品のみに限られることになった。

 そんな中で、私の心をガシッと掴んだのが奈須きのこ空の境界」である。様々なものごとから『概念』そのものを物語構造に練り込んでしまう世界観がとても魅力的だった。

 そして、個人的にライトノベル読者と呼べる自分をほぼ終わらせたのが、秋田禎信の「エンジェル・ハウリング」である。

 この作品についての感想は折に触れて語っている気がするが、大きく感想を述べると、この作品を読むことで物語に何を求めていたのか、私が何を必要としていたのかが分かったため、他の作品を読み漁る必要がほぼなくなったのだと思う。私はこの作品を読むことで、『人の言葉を聞く方法』をようやく学ぶことができたのだ。

 そして、伝えたいことを感じにくい物語が苦手になった。

ライトノベル以外

 ライトノベル以外というか、エンジェル・ハウリング以外で読んでいたのが、森博嗣の百年シリーズである。このシリーズはSF作品に数えることができると思うが、誤解を恐れずにいうと、ライトノベルとそれ以外のちょうど境界線上にある作品であるとも思う。「女王の百年密室」「迷宮百年の睡魔」、どちらも素晴らしい物語だった。

社会人になってから

 は、あまり本を読まなくなった。半年に1冊読めば良い方ぐらいにまでペースダウンしている。

 魔術士オーフェンの第4部は当然読んだが、さすがに中学生の頃と同じような熱量で読み込むことはできなかった。

 また、百年シリーズの完結編として出された「赤目姫の潮解」も、読み終わった瞬間にはすごいものを読んだと理解したような気になったが、後から思い返してみるとよく分からない、というのが正直なところである。

 つまり、社会人になってから全体的に物語にかける熱量がとても下がった。このエントリのタイトルとして女オタクを自称しているが、ゲームもほとんどやらなくなったしアニメも滅多に見なくなったし、マンガもだいぶ買う量が減ったし、小説についてもこの体たらくである。

 これは歳を取ったからかなーとも思うけれども元気にオタク活動をしている同世代もいるのだから、やはり私個人の何らかの原因がそうさせているのだろう。

 じゃあなぜ女オタクを名乗ったのかというと、私個人のアイデンティティが確立する思春期に明らかにオタクだったため、今でもその時の感覚を引きずっているからだ。

 なんか最後はグダグダになったが、私のライトノベルとそれ以外の読書遍歴は以上になる。ここまで読んでくださった諸氏に、ありがとうございます。