なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

高いもんがいいもんの理論

 昔、『高いもんがいいもんの理論 叩き込まれて僕らは無敵』と歌ったのはMr.Childrenだった。そんなことを思い出した話である。

 今日、ケーキ屋さんで一人用のケーキを選んでいた。個人的にはフルーツに心が揺れていたので、色とりどりのフルーツが飾られたケーキを見比べてどれがいいか悩んでいた。だいたいどれも380円くらいの値段だった。

 けれどもそんな中、視界の隅に550円のケーキが目に入った。そのケーキは綺麗にデコレーションされた生クリームの上にシンプルにいちごが飾られたケーキで、それ以外のフルーツは見当たらなかった。

 けれども、こんなことを思ってしまった。380円のケーキにあれだけフルーツが使われているのだから、この550円のケーキには見えないところでもっとフルーツが使われているのかもしれない、と。

 そして結局、その550円のケーキを買ったのだ。

 結論を言うと、そのケーキにはいちご以外のフルーツは使われていなかった。

 なのになぜフルーツが多く飾られた380円のケーキより高かったのか?それを考えた時、生クリームが普通のケーキよりも濃厚に感じられた。

 きっと濃厚な生クリームを食べたい、という需要はあるのだろう。そしてこのケーキの価値は、おそらくそこだった。しかし、私が求めていたのはフルーツだったのだ。なのに私は値段でそこを見誤り、本当に食べたかったものが食べられなかった。

 このケーキは何も悪くない。悪かったのは、値段に眩んだ自分の目だ。

 今回はケーキだったから笑い話になるのかもしれない。けれども、値段だけで自分が求めるものがそこにあると判断するのは、勘違いも甚だしい。その値付けは、私のための値付けではないのだから。

 高いものは、多くの場合いいものなのだろう。けれどもそれが『自分にとって』いいものなのかどうかを判断できるのは、自分しかいない。

 そこで判断を誤らないように、普段から気をつけていきたい。

『過ぎ去りし時を求めて』から妄想する

 今年発売予定のドラゴンクエスト11は、『過ぎ去りし時を求めて』というサブタイトルが付いている。対応ハードはPS4と3DSという、あまりに異色の組み合わせだ。

 私は3DS版で買おうと思っている。このサブタイトルから妄想するに、それが正解だと思っているからだ。

 どんな妄想をしているのか?という件だが、ドラクエの主人公として何度となく世界を救ってきた我々を時間を軸にしてメタな方向から刺しにくるのでは?と妄想しているのである。なので、オールドプレイヤーである私には、昔のドラクエを思い出すような2DとPS時代ぐらいの粗い3Dを並立させた3DS版が正解なのではないかと考えているのだ。

 それに、時間を軸にしたメタネタをやるとしたら、対応ハードをわざわざPS4と3DSにしたのも納得が行く。オールドプレイヤーには昔を思い出させる3DSを、そして新しい若いプレイヤーには今と過去を対比させるために新しいハードであるPS4を当てたのではないかと思うのだ。

 私はメタネタが好きだしドラクエも大好きなので、今からとても楽しみにしている。

過ぎる時は淡々として

 お正月だろうと、過ぎる時は淡々としていると思う。

 なのに賑やかなイメージがあるのは、自分が賑やかな場所に身を置くからなのだろう。そうして自分も賑やかさに貢献するのだ。

 だから、お正月の賑やかさは人々の集まりの賑やかさなのであって、人々のご縁の賑やかさなのだと思う。

 今、私の周りは静かで、人々の賑やかさからはちょっと遠くでこの文章を書いている。それは別に寂しいことではない。

 普段よりも人が集まって賑やかな場所ができるとしたら、普段よりも人がいなくて静かな場所もまた現れる。

 そうしたところで時が淡々と過ぎることを確認するのも、新年の過ごし方として悪くない。

 時の流れの平等さ、残酷さ、そして優しさは、年が新たまっても変わることはないのだから。