私が一番好きな作家は秋田禎信だと何度も書いているが、今日秋田禎信のデビュー作であり処女作でもある『ひとつ火の粉の雪の中』を読み返してみた。
正直、これだけの話を17歳で書いたとは信じられない。秋田氏自身は何度かインタビューなどで受験生が現実逃避にクーラーの効かない部屋の中でワープロに向かうとこんな話が出来上がる、と語っていたように思うが、それが本当なら秋田氏は小説の神に愛された方なのだろう。
私の印象論であるが、秋田禎信という作家は間違いなく商業作家である。少なくとも、そうあろうとしている。秋田氏は表現者としての自分よりも商業作家としての自分に挑戦したがっている、しているというきらいがある様に思う。オーフェン、シャンク、エスパーマンなどにその点が顕著に現れているだろう。
しかし、この処女作は違う。秋田禎信が唯一商業的な話というフィルターを一切かけずに書いたのがこの物語だ。
そしてこの処女作からして、いや処女作だからこそ秋田禎信の個性が強烈に発揮されている。人物の内面描写を地の文に頼らず行動などを通して描写する手法、幻想的な情景を描写するための繰り返し、韻を踏んだ文章、言葉遊びのような問答。そしてそれらを通じて伝わってくるいい知れぬ何か。それが、ある。
この処女作では、人が人として生きることの貴さを徹底して描いている。鬼と人の子である夜闇は、人として死んだ。そして夜闇を人の子として生かそうとしていた鳳もまた、修羅でありながらも人として生きた。海を目指すことが彼らにとっての人として生きる道だったからだ。だから鳳は、今いる世界が海に通じていないと知りながらも夜闇に海を目指すことを止めさせようとは決してしなかった。
ここでひとつ疑問に思う点がある。竜大と対峙した際には修羅が人として生きるのを認めず竜大のむなしさを理解しなかった鳳が、なぜ夜闇に逢ったときには彼女を人として生かそうとしたのかだ。それは自分自身も人として生きる道につながることに気づいていなかったのだろうか?いや、気づいていなかったのかもしれない。鳳がそれに気づいたのは、彼が縛妖陣を抜け出せたその時だったのかもしれない。そして竜大のむなしさは夜闇と旅をする過程で少しずつ理解していったのかもしれない。
そして終章の海の声。海へ、そして空へ向かう夜闇に向かって、鳳はまた鬼の子を探すと告げる。きっとそうなのだろう。鳳はまた新たな鬼の子を見つけ、そしてその子を夜闇と同じように人として生かし、世界を愛することを教え、鬼王に打ち勝つ力を与えるだろう。そうして鳳自身も人として生きていくのだ。
この物語にある確かな感動は、この人間讃歌にある。そしてそれが秋田禎信の原点だとすると、彼はこれからも人の生きる道を追求して行くだろう。その過程として、人が生きる責任は人類すべてで背負って行くべきだという思想や、人と人がふれあうには距離が大切だといった思想につながって行くのだろう。
これから秋田作品を読むときは、その作品の商業的な狙いとともに、秋田禎信がいったいどんな切り口から人間を讃えているのか、それに気をつけながら読もうと思う。秋田禎信は商業作家としての自己と表現者としての自己の落としどころを探りながら作品を書いていっているのだろうと思うから。