なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

ふわふわは幸せだと信じて

 今日、街を歩いていて何かが視界に入った。

 白くて、ふわふわで、風に煽られながら舞っている何か。

 それをつかむことができるだろうかと手を伸ばしてみたら、ちゃんとつかむことができた。

 それはよく見ると、ホコリのように細かく何十本にも割かれたナイロンひもの切れっぱしで、どこかの工事現場などから飛んできたのだろうかと思いながらも、よくこんな空を舞うような状態になって飛んできたものだと感心してしまった。

 この、軽くて白くてフワフワしたナイロンひもから、私はなんとなく幸せを連想した。幸せのケセランパサランとはこういうもののことを言うのではないかと。

 そして、それをまた風に任せて手放した。白くてフワフワしたそれは、強めの風に乗ってすぐに見えなくなってしまった。

 それをつかむことができた私は幸運なのだと信じよう。私が手放したそれが、また誰かのところに幸運のしるしとして訪れることを祈ろう。

 それが本当の幸運のしるしとなるように、私の歩む道を選ぼう。

物語を空間で把握する

 ゲーマー世代の人は、『一本道のストーリー』という用語を口にすることがある。もちろん褒め言葉ではなく、たった一つのシナリオを延々と見せられている場合などに用いられる。

 ゲームには、物語が分岐したりするインタラクティブ性があり、それが当たり前になってしまった世代には、ゲームにおいて『一本道のストーリー』しかないのであったら、それはマイナスの印象なのだ。

 では、『一本道のストーリー』の逆の用語はなんだろうか?それはおそらく、『広がりのあるストーリー』だろう。一本道という一次元から、広がりという二次元に拡張されたのだ。

 つまりゲーマー世代は、物語を空間的に把握する能力がある、と推察できないだろうか?

 メインストーリーがあり、サブストーリーが幾つか並列にあり、最終的にサブストーリーがメインストーリーに合流する、といったことを空間的に考え、把握しているのではないかという話だ。

 普通はこれは難しい。けれどもゲーム内シナリオの場合、イベントが起こる場所とストーリーの舞台は大抵一致しているので、ここには〇〇のシナリオがあり、こっちには△△のシナリオがあり、といった具合で、ゲーム内の空間構造がそのまま、物語を空間的に把握する能力に寄与しているのではないかと思うのである。

 しかし、だからどうという話ではない。

人生はロールプレイングだ

 君は、いつも僕を見たこともない世界に連れて行ってくれる。

 そして僕は君に連れられて、見知らぬ人々と出会い、世界中を駆けめぐり、君の喜び悲しみを一緒に感じる。

 これは物語そのものだ。

 けれども物語には終わりがやってくる。君と僕が別れなければならない時がやってくるのだ。

 君と別れてからも、僕は君のことを想う。物語が終わった世界で、君はどう生きているのだろうと。

 ある君は王様になったり、ある君はお父さんの後を継いだり、ある君はその行方が知れなくなっていたりする。

 いずれにせよ僕は心から思う。君が、幸せになっているようにと。

 君は、何度も出会った君たちは、いつも僕を幸せにしてくれた。

 君を通して見る冒険の世界は決して幸せなことだけではなかったけれど、それも含めて僕には幸せな思い出なのだ。

 今一緒に冒険している君も、もう長い付き合いだ。今までたくさんの君たちとの別れがあったように、いつか君とも別れる日が来るのだろう。

 その別れがまた、幸せなものであることを願うよ。

 そして別れた後の君が、僕がいなくなった世界でも幸せに生きていることを、心より願うよ。

 主人公という名の、もう一人の僕へ。