なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

輪るピングドラム20話までの感想

 まず、

  • 苹果:生命、生きる力の象徴。相手を追いかける。
  • 陽毬:死、消え行く命の象徴。相手から逃げる。

だと思っている。
 キーワードは20話の陽毬と眞悧の恋についての話から。あの話は恋に限らずもっと普遍的な物事にも通用するのではと感じた。

 前半の苹果は結局「パパ、ママ、私を見て!」というのをやっていたわけだ。そのために多蕗を追いかけ桃果を追いかけ、両親を追いかけていた。普通だったら途中で追いかけることに疲れてしまって自らを省みて、追いかけることを諦めてしまったりする。そうして自分は必要とされていないのだと感じ取ってしまって子供ブロイラーに行ってしまうことになる。
 でも苹果はそうはならなかった。彼女は運命を信じていた=桃果の日記を持っていた。苹果にとって日記は希望であり生きる力そのものだった。だからあそこまでパワフルに周りを顧みず追いかけたいものを追いかけることが出来たのだ。桃果が日記を残したのは間違いなく苹果のためだろう。
 一方の陽毬は、自分を見て欲しいのだけれどそうとは言えず、母を待っているだけであった。母が帰ってきてくれる=追いかけてきてくれるのを待っていた。彼女は追いかけるためのエネルギーどころか本当の気持を口にすることすらできなかった。

 この生きる力を陽毬と眞悧の話の中の果実だと考えてみると、陽毬が言う逃げる人は果実を与えてくれないというのも納得である。逃げる人はそもそも果実を持っていないのだから。そして果実を持っていないなら追いかける力もないというのなら、果実を持たない人は誰かが追いかけてきて果実を分けてくれるまでどうしようもないという結論にいたってしまう。しかし眞悧は言う。空っぽでも追いかければいい、と。
 この言葉が福音なのかどうかは分からない。けれどもこの物語の至る場所は、少なくとも今の陽毬の肯定ではないだろうという確信がある。そして私は陽毬に走りだして欲しい。すべてを諦めたままでいて欲しくない。どうか苹果が陽毬の手をとってくれるようにと祈っている。