及第点は1で、できれば2までは行ってほしい。 pic.twitter.com/po0XS3pkLS
— kzhtw (@kzhtw) 2016年8月24日
を見て考えたこと。
まず思うのは、例えというのは危険だということ。抽象的な話をしたいのに、例えを出して具体化してしまったがために具体的な部分に突っ込まれているという感想を持った。
続くツイートを読んでみると、
これはちょっと情報不足な指示に対してどういう意識で対応するかの例えであって、そもそも指示が言葉足らずとかこの提示した内容で修正にどう対応するのが正解かとかいう話ではない。ようは何も考えずに作業する人、一を言ったら十までやれる人がいるということ。
— kzhtw (@kzhtw) 2016年8月25日
作業者としてはレベル0では困るし、指示を出すほうとしては、このくらいの指示でも文と現状データなりデザイン画や資料なりを見て察してほしい。この例でのレベル0の場合、おそらく本来凸凹が揃っているデザインというのを作業者が理解していないか、ナメて雑に対応しているかあたりと思われる。
— kzhtw (@kzhtw) 2016年8月25日
とあり、本当に伝えたいのは、指示に対してその意図を汲み取る姿勢を持っていてほしい、という主張なのだろうと読み取れる。
しかし、そうした抽象的な話だけをしてもこの主張は広まらなかっただろう。具体例があるのとないのとでは、抽象的な話を理解してもらうためのハードルが大きく異なる。
具体例といってもう一つ思い出されるのが、NHKの貧困特集で取材された女子高生の話だ。
もともと伝えたかったのは、貧困は是正されるべきだ、という抽象的な話だったはずだ。しかしそこに女子高生が具体例として登場してしまった。そして、人々が抽象的に考える貧困と女子高生が表す具体性がそぐわず大炎上した。
だが、貧困は是正されるべきだという抽象的な話だけでは誰の胸にも響かなかったであろう。
では、なぜ抽象的な表現よりも具体的な表現の方が理解されやすいのだろう?
それは、抽象的な表現を理解するのには想像力が必要なのに対し、具体的な表現を理解するのに想像力は必要ないからだと思われる。
しかしどちらがいい悪いの話ではない。数学のように抽象的な表現である方が正確性を持つものもあるし、記録のように具体的な表現である方が正確性を持つものもある。
だが、気をつけるべきは抽象的な話を伝えたい時に例として具体的な表現を使う場合である。
具体例はあくまでも例であって、伝えたい抽象的な話を完全に反映できるものではない場合があるし、その具体性が人の誤解を招く場合もある。
そして具体例が誤解を招いた時、もともと伝えたかった主張は歪められてしまう。
これらを踏まえて、誤解を招かない具体例の出し方というのはどういうものだろう?その成功例として、
を挙げたい。この文章では、国全体にかかる医療費という抽象的な事柄を、母にかかる医療費という具体例を通して考えている。
この文章の大きな特徴は、具体的な事柄も抽象的な事柄も著者の目線から逸脱することなく語られているというところにある。具体的な事柄と抽象的な事柄が有機的に結びついているため、具体例に粗がなく人の誤解を招くこともない。主張と具体例に齟齬がないことが肝要なのだ。
具体例を出して主張をするのならば、こうした点には常に気をつけておきたい。
ここまでは主張をする側の話であった。ここからは、主張を受け取る側の話である。
あなたが人の主張を具体例のせいで誤解した時、その誤解の責を誰に求めるのだろう?
誤解の責は全て主張者にある、というのは簡単だろう。しかし、私は受け取る側にもここまでで説明してきた『例』というものの難しさを知ってほしい。
例を出す人間はその具体的な事柄を伝えたいのではない。その具体例から見出される抽象的な事柄こそを伝えたいのだ。
例の具体性に目を向けるのは簡単だ。けれども、真の主張はその例の奥に眠っている。
あくまでも例でしかないところに思考を向けるのではなく、その奥に隠れているところを考えてほしい。
それが主張者にとっても受信者にとっても有益なことだと私は思う。