なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

自分に「良い」「悪い」のレッテルを貼らない

 気持ちが苦しい時に心の問題を扱ったエントリなんかを読んだりすると、最後には「自分をありのままに受け入れるのが大事です」なんて書いてあったりして、それが出来れば苦労しねぇよ!などと匙を投げたくなる経験、私以外の人も体験したことがあるんじゃないかなー、と思ったりします。

 でも、この「自分をありのままに受け入れる」ということ、個人的にはちょっとしたコツでできるようになった気がしています。

 そのコツが、自分に「良い」「悪い」のレッテルを貼らない、と言うことです。

 自分の感情や行動に対して理屈を付けて、間違っているから自分は悪いという結論を貼ってしまうのは苦しいです。

 一方で自分に対して、自分は悪ではないから善である、みたいな自己肯定をしてしまい、正しいから自分は良いといった結論を貼るのも苦しいです。

 前者の苦しさについてはあまり説明の必要はないと思いますが、後者には少し補足をします。

 まず、自分は悪でないから善、という二元論に染まっているところがガンです。だからこそ、自分が善の道から外れた時には自分が悪であるという結論しか残らず、その時になると自分が今まで善であると思って悪に対して吐いてきた言葉が全て自らの身に返ってきます。これは、自身が苛烈に「正しくあることで自己肯定をしてきた」人間であるほどこの罠は恐ろしい牙を向きます。

 だから、自分の感情や行動に対して、自分で「良い」「悪い」といった評価をすることをやめましょう、ということです。

 しかし自分が正しくあろうとしないと自分の周りの人に迷惑をかけることになるのでは?と思う方もいるでしょう。その説明はもう少し後でします。

 では、自分を評価するのをやめるというのはどういうことなのか?

 例えば、「ダイエットをしなければならないのにお菓子を食べてしまった自分は悪い人間だ」ではなく、「ダイエットをしなければならないけどお菓子は食べたかったんだ。でも、次はやめておこう」と、悪かったことで自分を批判せず、次の行動に活かすという方向に向ける。

 例えば、「飲酒運転は良くないからそれを批判する自分は正しい」ではなく、「飲酒運転は良くないから見かけたら絶対に止めよう」というように、自分が正しい人間であると思うのはやめて行動に活かすようにする。

 別に自分が「良い」人間であることも「悪い」人間であることも、どうでも良いといえばどうでも良いのです。そんな評価は行動の後についてきます。

 大事なのは、自分はどういう人間であるのか頭で考えることではなく、どういう行動をとる人間なのかということです。

 この行動を軸に考えると、正しくあろうとしないと人に迷惑をかけるのではないかという点にも答えが見えてきます。

 結局のところ、考える順番の問題です。自分は正しいから人に迷惑をかけていない、ではなく、人に迷惑をかけない行動が正しいと呼ばれていた、なのです。

 例えば、図書館では静かにする。それはそうするのが正しいルールだからからするのではなく、周りの人のことを考えたら静かにする方がいいだろうという考えが先にあり、その考えの元ルールができてそれに沿うことが正しいと呼ばれるようになったと考える方が自然でしょう。

 話がだいぶそれた気もしますが、自分の行動を「良い」とも「悪い」とも評価しないことが大切です。そうした正しさの物差しで自分を計ってしまうのは、常に自分を裁判にかけているようなものです。

 自分というものは正しくないと見失ってしまうほど柔なものではないと私は思います。自分を良い悪いと評価して自分を歪めてしまうより、自分を評価しないで出てきた感情を信用できたらいいと思うのです。