以前移民政策には大反対だという記事を書いた ( http://d.hatena.ne.jp/KZE/20080621/p2 ) 。しかし今大学で学んでいるゼミの先生によると、日本人は古くから移民を招き入れていた雑種民族だというのだ。単一民族だと思われがちな日本人には実は渡来人や南方ポリネシア系の民族などの血が混ざっているという。けれどもそんな彼らは今は立派な『日本人』になってしまったというのだ。
それは時間がそうさせたのか?と質問した。
しかしその先生によるとそうではなく、彼らは日本語を話すようになって『日本人』になってしまったというのだ。
日本語は論理だった言語ではなく、『空気』を察することを前提とする非論理的な言葉だと言う。その『空気』を読むことを要求する日本語を扱う力が日本人を日本人足らしめているというのがその先生の論だ。だからたとえ労働者階級の移民であってもしっかりと日本語の教育をすれば、ドイツやアメリカのようにゲットーが発生したりして社会問題化することはないという。
その先生はドイツへの6年ほどの留学経験のあるドイツ語の先生で、東洋哲学の研究者というよく分からない履歴を持った方だ。ドイツでは社会問題になっている移民問題を直接目にしてきただろう。その経験を経てなお前述のような主張をされるところに驚愕する。移民国家のアメリカのことを私が子供の頃は『人種のるつぼ』といっていたが、人種は混ざりあわないという理由で近年は『人種のサラダボウル』と言い換えている。そんなアメリカやドイツの現状をふまえてもなお、日本語というツールは人種間の壁を溶かしてしまうというのだ。
この先生の論を積極的に支持する勇気は私にはない。もしこの論が間違いだったならそれは日本にとって取り返しのつかない打撃を与えるからだ。しかしその一方でこの論に魅力というか希望を感じたりもするのもまた事実である。日本人は外国の風習を日本人になじむように取り入れるのが非常に上手い。その外国の文化を自国風に取り入れてきた実績が、移民をも日本風に取り込んでしまう可能性を示しているということは確かにあるのではないか?そしてそのための非常に大事なツールが空気を読むことを前提とした、なぁなぁな日本語だというのは確かにあり得るのではないか?
しかしながら前述のように、それでもやはり私は移民政策を積極的に支持する気にはなれない。これは勇気の問題だろうか。