なにかのまねごと

A Journey Through Imitation and Expression

ネットは決して世界ではない。

 最近諸事情でネット環境のない実家に帰ることが多くなった。必然、ネット断ちをすることになる。この影響が大きいのだろうが、ネット上の最新情報を追うことに興味が無くなってしまった。
 個人的には、ネットの利点の大きなものの一つとして情報伝達の素早さがあると思っている。RSSリーダSBMTwitterなどはその速度を更に速めるツールだと考えている。
 しかし、常に最新の情報を必要としている人々というのは、一体どれだけいるのだろう?そして、その最新の情報を処理し続けられる人々というのは、どれだけいるのだろう?
 少なくとも、私はそれに疲れた。最新情報の流れを追っている間には気付かなかったが、常にネットと向き合い素早く面白い情報を仕入れ続けることは、楽しいことであったことは確かだが、疲れることだった。そして、そうやって手に入れた最新情報も一体どれだけが自分にとって本当に必要なものだったのか?あくまで私の場合ではあるが、9割以上がいらない情報だったと言える。
 大学生活を終えて実家に帰ったら実家にもネットを引くつもりでいるが、この6年間の大学生活でやっていた様な、1日6時間以上ネットをやっていた日々には戻りたくない。本当に疲れたからだ。


 しかし、自分は1日6時間以上ネットをやる様な人間だったにもかかわらず、身近なところでは私の弟など、ネットにあまり、または全く接しない人々との縁が切れなかったのが私の幸運だと思っている。ネットの最大の利点が恐怖でもあることに気付くことができたからだ。
 ネットは個人をその趣味指向に則って、かなり最適化されたクラスタに所属させる。これこそがネットの最大の利点だと私は考えている。ネット以前のクラスタは、生まれた場所などの制約を大きく受け個人の個性などを無視していた。ネットはその物理的な壁を取り外し、個人がその能力個性に則って、ふさわしいクラスタに所属させる。これは本当に素晴らしいことだ。しかし、問題はその最適化が素晴らしすぎるということだ。その素晴らしすぎる最適化が生み出すものは視野狭窄だ。他のクラスタが、見えなくなる。
 自明のことだ。ネット内のクラスタリングがどのように行われるのか?個々が自分にとって必要な情報のみフィルタリングすることで、クラスタリングは行われる。必要のない情報、他のクラスタが見る情報は見ない。だから他のクラスタが見えなくなる。
 この、他のクラスタが見えなくなるという状況は、直感的に良くないことだと思っている。人がネットの中だけで生きていけるのならば、それも良いのかもしれない。しかし、私たちは本当のメタWeb、現実に生きている。Webが現実のメタにあるのではない。現実以外にWebのメタはあり得ない。その現実でネットの世界を引きずりすぎるのは危険な気がしてならないのだ。ネットは道具なのだ。決して世界そのものではないのだから。