「神がいないこの世で、奇跡など決して起こらない。だが奇跡が起こらないことなど絶望ではない。奇跡の不備を、誰もが知っているというのに、それでも生きていなければならない。それが絶望だ」
−−ライアン・キルマークド(我が絶望つつめ緑)
希望がない世界で、『それでも生きていなければならない』、それが絶望なのだという話。
しかし、今の私はこの言葉の中に福音のようなものを見つけることができる。
「時間は絶望より強い」
これはサンプル数1の私個人の実感でしかない。だが、このレンズを通して先ほどの言葉を見てみると、希望の芽が見つかる。
生きていなければならないというのは、時間が経つのを待っていなければならないということだ。
でも、この時間という奴は強力な力だ。あらゆる栄華を砂にしてきた実績がある。
そして同時に、無差別な力だ。絶望にも分け隔てなく襲いかかり、これもどこかへ追いやってしまう。
生きていなければならないことそのものが絶望であるが、けれども生きていれば時間が過ぎる。その時間は、やがて絶望をどこかへ押し流してしまうのだから、生きていることは希望につながるのだと思う。
時間は、絶望を少しずつ削り取っていく。その絶望が自覚できるほどの量削られるのは、絶望を抱く人が死ぬまでには間に合わないかもしれない。けれども、間に合うかもしれない。そして、死ねないことが絶望ならば、間に合う方に賭けてもいいんじゃないかな?などと思うのだ。
もし、間に合う方に賭けたとして、そのコインが見えるのならば。それこそが時間が削り取った絶望の小さな隙間に輝く希望なのだ。