このエントリは、秋田禎信関連 Advent Calendar 2016 - Adventarの21日の記事になります。
この文章では、精霊アマワは何者であったのかということを中心にして、エンジェル・ハウリングの諸々を解釈していきたいと思います。
と思ったのですが、文筆力的に難しいので、私がエンジェル・ハウリングから読み取ったごく一面的な解釈を独善的に垂れ流す文章になります。乱文申し訳ないです。
硝化とは?
アマワが何をしようとしていたのかを考える手がかりが、硝化という現象です。硝化とは精霊になることであり、精霊は心を持ちません。つまり、心の不在が証明されたものは精霊になるのです。
アマワはすべてを奪っていく、とベスポルトは述べています。そしてアマワに奪われたものは硝化してしまいます。帝都が硝化したのがそれです。
これらを総合して考えると、アマワは心の不在が証明されたものをすべて奪い、硝化させるという能力を持ちます。
アマワの目的はなんだったのか?
これは単純なものを想像しています。アマワは存在したかったのです。この目的のために、アマワは契約者となります。
アマワは、クライマックスで未来精霊アマワと自らの正体を晒します。この時に、私はまだ存在しないと発言しています。では、アマワはどうしたら存在できるのか?私はこれを、アマワがすべてを奪った時だと考えます。
アマワがすべてを奪った時、というのはどのような状態でしょう?それはすべてのものに心の不在が証明された時です。アマワは契約者であり心の実在を証明するためにある、と自称しますが、アマワの本当の目的は心の実在を証明できなかったことにより世界のすべてを奪うことなのではないかと思うのです。
このことを考えると、ベスポルトがアマワのことを、大切なものを侮蔑する存在と評する意味がわかります。アマワは人が心の実在を証明できないことを想定しながらこの契約に臨んだのです。それは、人の心はないものだと決めつけてかかる、とても侮蔑的な態度に他ありません。
そしてベスポルトは、そんなアマワを否定するため、心の実在を証明するために契約者になります。だから彼は、人がアマワに勝てるのかどうかを疑問に思い、「我々は、お前を失望させることができるか?」と質問するのです。アマワを失望させること=心の実在を証明すること、であり、なぜ契約者アマワが心の実在を証明させられて失望するのかというと、アマワは本当は心の実在が証明されないことを望んでいるからなのです。
そして、心の実在が証明されなかった時、不確かなものであるはずの未来は心による揺らぎをなくして確定し、未来精霊アマワは実存できるようになります。
アマワは失望したのか
これは明確に是です。アマワはミズーとフリウに失望します。ミズー編でアマワがミズーに失望しているのは描写がわかりやすいですが、フリウ編でもフリウが「いつか来るなら来ればいい」「その時にまた失望するだけ」と述べています。
ミズーとフリウはどうやってアマワを失望させたのでしょう?二人は、アマワにとって『契約の価値がない者』になったため、アマワを失望させます。この契約の価値とはどういう意味なのか?繰り返しますが、アマワは実際には心の実在を証明されたくなかった、そこから考えると、心の実在を証明しようとしながらもできない人物こそ、アマワにとって契約の価値があるものだったのではないでしょうか?
そして、ミズーとフリウは信じることにより、アマワには奪えないものがあるということを証明して、アマワを失望させたのです。
アマワはなぜ心を奪えないのか
ここが恐らく、エンジェル・ハウリングという物語の核心なのではないかと思います。心とはどういうものなのかということがアマワがなぜ心を奪えないのかという理由になるからです。
これはとても難しい問題です。しかし、私なりの考えを述べさせていただくと、心は信じることでしか届かない領域にあるからなのではと思います。
ベスポルトの賢者と愚者の話を思い出すと、賢者とは全てを疑うものとあります。同時に、全てを疑う者は全てのものに答えがあると信じる者でもあります。これは、イムァシア人であり、アイネストであり、そして精霊アマワ自身です。一方の愚者とは全てを信じる者とあります。確証がないものも信じることができるのが愚者であり、答えがないことを知っている者でもあるのでは?と思うのです。そして、答えが、確証がなくとも信じられる者は、ミズーでありフリウです。
ここから考えるに、心とは、存在しないと知りながらも信じることでしか見つけられないもの、なのではないでしょうか?
アマワは常に答えを求めています。常に疑っているから、信じることでしか見つけられない心はアマワの手に届かないものであり、アマワには奪えないものなのではないのか?と私は思うのです。
最後に、エンジェル・ハウリングと私について
長々と語ってきましたが、もう少しだけお付き合いください。
私は、とてもとても疑い深い人間でした。10年来の友人の友情ですら疑い、人に好意を寄せられてもそれを信じることができず、かえって人を傷つけるような人間でした。
そんな私が信じることをテーマにしたこの物語に惹かれるのは必然だったのでしょう。
思うに、信じることは愛することであり、愛されることです。言葉が伝わると信じることが愛することで、言葉を信じて受け取ることが愛されることだと、この物語を読んでから思うようになりました。
そして、拙いながらもそれを実践しようとし、今のところ成功しているように思います。
私は今、誇りを持って幸せであると言える、とても幸せな状態にあります。そうした私になれたのは、間違いなくこの物語に散りばめられた愛の言葉を信じて受け取ったからです。
物語は人生を追体験できる素晴らしさを持っています。私はこの物語により、愛するミズーと、愛されたフリウ、両方を体験して、信じることができる私になれたのです。
著者である秋田禎信氏には、感謝の言葉しかありません。ありがとうございます。